Tokyo to Saigon ― 社長、中学生にベトナム語を習う

ホーチミンに会社を作った私が、ベトナム語の先生を探し、思いがけない相手とレッスンを始めるまで。六つの声調に苦戦し、漢越語を通じて、ベトナム語が日本語の遠い親戚だと知った話。

Tokyo to Saigon ― 社長、中学生にベトナム語を習う

ホーチミンに会社を作って一年。私は、自分がまだベトナム語をまるで話せないことに、そろそろ本気で焦りはじめていた。

独習を始めたのは、もっと前のことだ。続けられる自信がなかったので、誰にも言わずにひっそりと始めた。毎晩寝る前に十五分ほど、本をただ読み進める。それを四ヶ月続けても、実力が上がっている気がまるでしない。単語も本気で覚えているわけではないので、見れば「あぁ、たしかこういう意味だったな」という程度。端的に言うと、喋れる気がしないのであった。

やはり先生を見つけて、レッスンを受けるしかない。

先生が見つからない

ところが、これがなかなか見つからない。

一番の問題は発音だった。ハノイとホーチミンで、ベトナム語の発音はかなり違うらしい。そしてベトナム語の先生はハノイの人が多い。首都はハノイなので、標準発音もハノイのものになるのだろう。でも私の場合、会社はホーチミンにあり、出張先も、話す相手もほとんど南部の人だ。実用的なのは、圧倒的にホーチミン発音のほうである。

もう一つ、尻込みさせる出来事があった。ホーチミンに移住したある日本人女性が、YouTubeも出している人気のハノイの先生に習っているのだが、三ヶ月経ってもまだ基礎的な発音練習をしていて、そこから先に進ませてもらえないという。三ヶ月も発音だけ……。私には、とても耐えられそうにない。

そもそも私は、発音は”後からついてくるもの”だと思っている派だ。前職で毎月北京に出張していた頃に独習した中国語も、四声をかなり無視して無理やり話しているうちに、少しずつ矯正されていった。まずはある程度フレーズを話せるところまで早く行きたい。声調を完璧にするのは、その後でいい。

社長、中学生に習う

考えた挙げ句に思いついたのが、社員に教えてもらう、という手だった。うちの社員は全員が南部か中部の出身で、間違いなくホーチミン発音だ。語学の先生ではないから教え方にこだわりもなく、こちらの学びたい順番でお願いできる。なにしろ私のベトナム語は中学一年一学期レベルなので、難しい文法もまだ関係ない。

いつも私の発音を聞いて頷いたり直したりしてくれる社員が二人いた。そのうち最年長のケイに、Slackで頼んでみた。やってくれるかな、断られるかな、とどきどきして待っていると、一日後の返信は予想外のものだった。

私の息子が教えるのはどうだろう?

息子? 続けて、彼は私より英語ができて日本語も勉強しているから、私よりうまく教えられると思う、とある。ケイの息子くんは、先日の社員の結婚式で私の隣に座っていた、まだ中学生くらいの子だ。教えられるのかな……とかなり不安だったが、だめだったらやめればいい、と思ってお願いすることにした。

こうして会社設立から一年、私はベトナム人の中学生と、ベトナム語のレッスンを始めることになった。

六つの声調

レッスンは毎週日曜の夜八時半から。Zoomのつもりが、先方の希望でDiscordになった。ゲームをやらない私には初めてのツールだ。恐る恐る立ち上げると、画面の向こうにケイと、息子のケンくん(仮名)がいた。

まずは声調から。ベトナム語には、恐ろしいことに六つの声調がある。中国語をやったことのある人なら、四声という四つの声調を知っているだろう。ベトナム語には、それがなんと六つもあるのだ。

a, á, à, ả, ã, ạ

中国語をかじった私は、ここには少し自信があった。上がる音のáは第二声、下がる音のàは第四声と同じだろう、と。しかも私には、四声を何度も直されるうちに発見した”奥義”がある。上がる音は「最初を下げる」、下がる音は「最初を上げる」と意識するとうまくいく、というものだ。

「この奥義を繰り出してやるか」と余裕で「ア↓ー↑」と発音すると、間髪入れずケンくんが直しを入れてきた。もう一度やっても「No」。よく聞くと、ケンくんの音は中国語よりも”さらに上がっていく”。無理やりもっと上げて、やっとOKが出た。

àも同じだった。奥義の「まず上げる」が、どうにもお気に召さない。あとで調べてわかったのだが、ベトナム語のà(重声というらしい)は中国語の第四声とは対応しておらず、第四声はむしろ最後のạ(落声)に近いらしい。ケンくんが秒で違和感を示すのも、当然だったのだ。

そのạで、私はふと中国語の「遊ぶ」という言葉、玩(Wán)を思い出した。声調は上がる音なのに、実際の発音ではアが途中でふんわり消えていく。この「ふんわり消える」感じが、いちばんạに近い。玩を意識してbạn(友達)と言ってみると、ケンくんの眉間のシワが少しゆるんだ気がした。

CDがあっても、独学では絶対に習得できなかった。思い込んだ”奥義”も、直してもらわなければ一生気づかなかっただろう。それでも、中国語で四声を経験していなければ、この六つの声調という壁に、ほんのり見える足がかりすら見えなかったはずだ。

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漢越語という足がかり

その足がかりを、もっとはっきり見せてくれたのが「漢越語(かんえつご)」だった。

きっかけは、アメリカを意味するMỹ(ミィ)が、中国語の美国(ミィゴー)の「美」と同じ発音だと気づいたことだ。そういえばヘクターが昔、ベトナム語の多くは中国語に由来していると言っていた。教材にも、日曜日chủ nhậtの説明として「主日」という漢越語が紹介されていた。漢字で書いたベトナム語——これを集めた本があれば、漢字とベトナム語の対応表が作れるに違いない。

Amazonで見つけた「漢越語ハンドブック」を開くと、驚きの連続だった。謎のアルファベットの羅列だと思っていたベトナム語が、私たちが使う漢字の読みをアルファベットで書いたものだったのだ。

たとえばđộngは「動」。động vậtで動物、hành độngで行動。この”ドン”は北京語と同じだ。一方ngoạiは「外」。ngoại laiは外来で、「(ン)ガイ ライ」と、むしろ日本語の「ガイライ」にそっくりである。北京語の「外」は”ワイ”だから、この単語はベトナム語と日本語のほうが近い。日本、中国、ベトナムが、同じ言葉でつながっている。ページをめくるたび、古(いにしえ)のロマンに思いを馳せた。

昔スペイン語をやったとき、難しい単語ほど英語の綴りに似て覚えやすくなると感じた。源流のラテン語からあまり変形していないからだ。ベトナム語もきっと同じで、難しい単語ほど漢語の発音に近づき、漢字や北京語の知識がこれから効いてくるはずだ。

そこで、ケンくんとのレッスンも途中からこの漢越語ハンドブックを教材にした。学(học)、力(lực)、望む(vọng)——一つの漢越語につき四ページの例文を、私がひたすら音読し、ケンくんがひたすら直していく。本には百三の漢越語が載っていて、まだ数えるほどしか終わっていない。それでも最近は、会議でいきなりカタコトのベトナム語を口にできることがある。みんなが驚いてくれるので、これが癖になる。

まだ一から十もまともに言えない男が、壮大な狸の皮算用をしている自覚はある。それでも、これほどルーツの重なった言葉なら、なんとしても習得したい。ベトナムと日本が、これほど遠く離れていて、これほど言葉の共通点を持っている。なんだか、俺たち兄弟じゃないか、という気分になってくるのである。

たのむぞ、ケンくん。

#ベトナム#ベトナム語#語学