Tokyo to Saigon ― 海の向こうに会社を建てる
登記、投資ライセンス、事業ライセンス、会計、労務、オフィス探し。ベトナムに会社を一つ建てるという、華やかさとは無縁の地道で煩雑な現実を、実際に手を動かした記録として残しておく。
会社をつくると決めるのは一瞬だ。でも、海の向こうに実際に会社を一つ建てるのは、まったく別の話だった。
Goldrush Studio をホーチミン市に立ち上げると決めてから、私は登記、投資ライセンス、事業ライセンス、オフィスの賃貸契約、月次決算、労務——華やかさとは無縁の、地道で煩雑な手続きの山と向き合うことになった。この記事は、そのプロセスを実際に手を動かして進めた記録である。これからベトナムに会社をつくろうとしている人には、たぶん何かの役に立つ。
まず、専門家に相談した
2023年の1月、ベトナムで法人設立のコンサルティングをされているS社長とZoomでつないだ。
S社長と初めて会ったのは、遡ること2019年の春だ。私がサイゴンに1週間滞在して、将来ベトナムに法人をつくる可能性を調査していたとき、滞在最終日の前日に「なにか具体的なステップにつながることをしていない」と焦って、会社登記をサポートしてくれる日本の方はいないかとGoogle検索して見つけたのがS社長だった。あのときは「また連絡します!」と言って帰ってきたのに、そこからコロナ禍が来て、4年もの月日が経ってしまっていた。
Zoomで「2019年に訪問した者です」と改めて自己紹介すると、「覚えてますよ」とありがたい言葉をいただいた。
そこから資本構成、役員構成、会社名、オフィスの賃貸契約、登記のプロセス……と、質問を交えながら概要を教えてもらった。面白かったのは、ホーチミン市では会社名が市内でかぶってはいけない、というルールだ。同じ名前の会社がすでにあれば、もうその名前では登記できない。だから候補を3つ用意してくださいと言われる。もし先にロゴやドメインを用意していたら、大変なことになっていた。
オフィスがないと会社がつくれない、会社がないとオフィスが借りられない
登記のステップは、日本で会社をつくるよりも明らかに多い。覚悟はしていたが、正直、圧倒された。
特に頭を悩ませたのが、最初のオフィスの賃貸契約だ。ベトナムでは登記手続きに契約済みのオフィスが必須なのに、そのオフィスを法人契約するには会社がないといけない。ん???、これってどうするの? じゃあ個人で借りて……と思っても、会社が登記される前にかかった経費は経費として認められないらしい。頭がくらくらしてきた。
そこで思い出したのが、数日前に見学したコワーキングスペースで、個室(サービスオフィス)でも法人登記ができると案内された話だった。S社長に聞くと、「サービスオフィスから始めるのも1つの手ですよ」と。早速ヘクターに調査を頼んだ。
その後、S社長が日本に出張中というので、表参道のショールームを兼ねたオフィスで直接お会いした。前回のZoomのあとに用意しておいた質問リストを、また1つずつぶつけていく。要は質問攻めである。登記前のオフィス契約、登記後の月次決算と会計監査——日本とベトナムで法律も商習慣も違う部分に、質問が集中した。TODOがどんどん積み上がって頭がくらくらしたが、異国の起業周りのルールをこれだけよどみなく話せるS社長の知識には、純粋に感服した。
オフィスが見つかった
コワーキングにするか物件にするか迷っている最中、物件探しを頼んでいたヘクターから、3件の写真と動画が届いた。
そのうちの1件が、とても居心地の良さそうな部屋だった。正方形の2部屋がつながっていて、奥にバルコニーがある。ビルの2階で、バルコニーの外には街路樹、その先にすぐ通りが見える。フランス様式っぽいバルコニーと南国の街路樹——旅行者としてしかホーチミンを知らない私は、こういうベトナムらしい物件にどうしても惹かれてしまう。立地はDistrict 1、それも私でも土地勘のあるエリアで、家賃は想定よりずっと安かった。ヘクターも3件の中でここが一番だと思っていたらしい。
ただ、ベトナムではどの物件でも登記に使えるわけではない。ヘクターが不動産会社の担当者Anにつないでくれた。ベトナムではZaloというLINEのようなアプリをみんなが使う。日本の電話番号でもアカウントが作れて、ZaloのグループでAnと直接やり取りした。Anの電話番号にS社長の弁護士さんから電話してもらい、この物件が登記可能だと確認できた。
契約書はベトナム語だったので、前回もらった雛形との差分は、いつも使っているプログラムコードのコンペアツールで確認した。プログラマで良かったと感じる、数少ない瞬間である。ベトナムのオフィスには警備員がいて使える時間帯が決まっているのだが、契約書の時間が聞いていたのと違ったので修正を依頼。火の出るリスクがあるものを使わないという条項に電子レンジが含まれていたので、これも外してもらえるよう交渉した。
署名して判子を押し、スキャンしてAnに送る。ベトナムも判子社会だ。デポジットを翌日払うと、その日からオフィスに入れるようになった。物件を見つけてから、私のパスポート再発行を1日待ったにもかかわらず、5営業日で契約締結。外国人がこんなに超速で事務所を借りられるとは。伸びている国は違う。
会計と労務に、詳しくなった
会社は建てて終わりではない。むしろ、そこからだ。
ホーチミン出張では、会計事務所を立て続けに訪ねた。S社長が、設立直後・月ごと・四半期ごとに必要な会計・税務・労務のToDoリストを作ってくれていたので、それを見せて「どの項目ならサポート可能か」を聞いていく作戦だ。移動はGrab(東南アジア版のUber)。訪ねた事務所はどれもDistrict 1やDistrict 4の一等地の、しっかりしたオフィスビルに入っていて、異国でビジネスをすることへの畏敬の念を感じた。
ある事務所では、こんな小さな会社を突如つくろうとしている知識ゼロの私に、代表の方が直々に対応してくださった。各項目のできる・できないだけでなく、どちらを事務所がやってどちらを自分がやるのか、気をつけるポイントまで丁寧に教えてくれる。別の事務所は距離感が近くて、資本構成について「なんでそうしたの?」とぶっちゃけて聞いてきて、他では聞けない本音のアドバイスをくれた。
3社目に向かう途中はランチタイムだったが食べる時間はなく、路肩でみかんのような緑の果物を山積みにした屋台のおじいさんにジュースを作ってもらった。皮は緑で、中身は濃厚なオレンジ。南国の昼下がりにぴったりで、エネルギーが充填された。2日間で4社を回り、自分の会社でやらなければいけない会計・税務・労務の知識が、一気に上がった。

投資ライセンス、そして事業ライセンス
外国人がベトナムに会社をつくるには、IRCと呼ばれる投資ライセンスが要る。それを取ってから、事業を営むためのERCを取って、ようやく登記が完了する。
ある日、S社長からIRCが取得できたと連絡が入り、ひとまずホッとした。送られてきたPDFは、ベトナム語で5ページほど、各ページに偉い人の印鑑が押されている。ここから1ヶ月弱でERCの準備が始まる。厄介なのは、ERCが降りた瞬間から会社がスタートすること。もし月末近くにERCが降りると、法人の銀行口座もまだないのに、その月の会計の〆日と給与計算日がやってくる。だからS社長は、月の前半にERCが降りるようタイミングを見計らって申請する。
ベトナムで法人登記は思っていたよりも遥かに複雑で、プロセスを熟知した経験者にしか不可能なのである。
以前、フィンランドの起業エコシステムを紹介するイベントに登壇したとき、大使館の方が「フィンランドはネットだけで簡単に登記できる」と言っていて、なんてすごい国だと思った。印鑑作成から始まる日本の登記は面倒だと思っていたが、ベトナムに比べたら遥かに簡単だった。
ライセンスの原本を、受け取った
ある朝、ヘクターと歩いて、S社長の会社が経営するホテルに向かった。同じDistrict 1でも、南の端から中心部まで歩くと結構かかる。約束に5分遅れて着くと、ディレクターのVさんと弁護士のTさんが、広々としたロビーで出迎えてくれた。
日本から、鎌倉のクルミっ子と京都のイノダコーヒーの豆を手土産に持っていった。「ベトナム人にコーヒーをお土産で持ってくるなんて、水鳥さんは度胸ありますね」とVさんとTさんが笑う。ベトナムはコーヒーの原産国だ。あえて飲み比べてほしくて買ってきた。Tさんは「外国のコーヒーは薄い」と、顔をしかめて笑っていた。
ふかふかの椅子に腰をおろすと、Vさんから投資ライセンスと事業ライセンスの原本を渡された。日本で登記したときは完了予定日を知らされて自分で謄本を確認するだけだったので、それに比べると、遥かに感慨深い瞬間だった。
会社印は事業ライセンスがないと作れない。ここは日本と逆だ。Vさんが発行直後に作りに行ってくれたおかげで、印鑑はもう用意されていた。ベトナムの印鑑は半径が大きいと知っていたので、渡航前日に世界堂で一番大きい朱肉を買っていったのだが、渡されたのはなんとシャチハタ形式。朱肉不要の、プラスチックのモダンな筐体でできた、超巨大なシャチハタのような印鑑装置だった。世界堂の朱肉たちは、活躍することなく役目を終えた。
海の向こうに、会社が一つ建った。登記が済むまでに積み上げた質問リストとTODOの山を思い返すと、始めることよりも、この地道な手続きを一つずつ終わらせていくことの方が、よほど骨の折れる仕事だった。
